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ペリシテの巨人は少年の石に気をつけろ 

ペリシテの巨人は少年の石に気をつけろ

アイドルマスターの新作がコンシューマで発売。
ちょっと欲しいぞ…でもXBOX360…。

5年前、初めてトゥーンシェイディング技術を見た俺は 3Dの未来はCGではなくトゥーンシェイディングだ!と電波をキャッチしたわけだが、どうやら正しかったようだ。
この単語を使うことには抵抗があるが、萌えという観点から言えばCGなんてグロいだけだ。その意味で俺はCGとついでにフィギュアとさらについでにFF9以降のキャラ造詣を支持する人間の感性を信用しない。
そして個人的な注文をつけるとしたらもっと3Dさを削ってくれたほうがいい。CG並みに滑らかになったらトゥーンシェイディングの意味がないからな。
アイマス


公式
ttp://www.idolmaster.jp/index.html

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WA5 

WA5

微妙。
メインパートは凡作。でも過去キャラがファルガイアの住人として勢ぞろいなんだ。否定できないよ。

確実にいえることはレベッカの日記風の割り込みがうざい。ボイス有りだとこうもうざいのか。個人的な意見だけど、FFとボイスがゲームをダメにしたと思ってる。

 まずFF。といってもFFはあまりやらないんだけど、シリーズ途中からキャラのフォーマットをゲーム以外から取ってきてるだろFF。等身大志向(ちっとも等身大じゃないけど)とかやめてくれよ。人間の要素が10種類あってそれぞれ1-10まであるとする。全部5だと中途半端なリアリティしか生まないけど、ひとつ10があれば+αを生むんだよ、そしてその+αがイデアであり、そのイデアに嘘だけど深いリアリティ風のものを感じてしまうんだよ。
 キャラ立ちのためにある種のフォーマットを用いるのは必要だし重要だと思うよ。でもカルティケヤ(WA5の悪役)はないだろ…PS2以降のFF系の陳腐な悪役の臭いがぷんぷんする。狂ってる感じを出すためにやたら笑ったり舌をだしてしゃべったり。これ系は新品以外だせーんだよ。古くなってもクオリティを保てる狂ったキャラのフォーマットはWA2のジュデッカだろ。

 あとボイスね。ボイス有りだと声優が発音したときに自然に聞こえるように文体の癖が薄くなるんだよな。そして全体の整合性からボイスなし部分(無名NPCのセリフ、ゲームの方向性等)も影響を受けて丸くなる。文章ではいい味だしてる、でも声に出して堂々と言うには恥ずかしい、そんなセリフたちがどんどん消えていく。WA3のNPCはみんな味のあるセリフ吐いてたよ。陳腐でもパクリでもいいんだよ。今のゲームの現状を見ていると(WAシリーズしかみてないけど)なんでゲームでまで日常会話風のセリフを聞かされなきゃいけないんだって思う。セリフで楽しませようという意気がどんどん減退している。セリフが良いゲームはボイス化でどんどん消えていくんだろうね。

「クレイモア」八木教広 

月刊ジャンプ連載中の「クレイモア」八木教広。
2007年、アニメになるらしいね。
有触れたファンタジーなんだけど不思議と先が気になって読んじゃう。
(特にテレサ登場から)
簡単にあらすじ。
寂れた中世ヨーロッパ風の世界で、人を喰う妖魔に対してある組織によって造られた半人半妖の女戦士・クレイモア。
主人公の名はクレア。歴代No1と言われたクレイモア・テレサの肉体を受け継ぐ半人半妖ならぬクォーターのクレイモア。
子供の頃の恩人であるテレサの敵を取る為に生き延び成長していく物語。
さらっと。

テレサ
ガラテア
ダフ
左から「クレア」「テレサ」「敵」
とかじゃないからね

西尾維新、佐藤友哉 

ここで昔話。
西尾維新、佐藤友哉、滝本滝彦。
同時代に同年代でデビューしたことで何かと比べられていました。
3人とも2003年くらいまでの著作しか知りません。
書きたいことが上手く言語化できないのでまずは単純化します。
多分3人とも同じようなものを持っていた。
それをどうしたか。
西尾維新→諦観、達観。
佐藤友哉→憎悪、怒り。
滝本滝彦→解答、逃避。

何を書きたいかというと。
佐藤友哉の「クリスマス・テロル」まであった何かについてです。
そして現在失われてしまった何かについてです。

佐藤友哉を簡単に紹介すると
劣等感と、その裏返しの優越感。そして自分と社会の閉塞感。
それらからくるフラストレーションの塊のような文章。
行間からは登場人物ではなく作者の不満が溢れている。
そんな作家でした。

AはBを苛めていた。
そしてBがAを切り刻む。
BがAに対して復讐を起す文章をC。
BがAを憎む文章をD。
作者のどうにもならない思いをE。
CにはDよりもEが入っている。
それ以上にどの文章にもEしかない。
童話だろうが何を書こうとEが漏れ出す。

あのドロドロとしたものをずっと求めているのです。
あの生々しさはどこへいったんですか。
西尾維新のように戯言と言い切ることもできなければ、滝本滝彦のように逃げ出すこともできない。
そして今や多くの人が抱えていない。
今の新人作家にはちっともないもの。
あのどうしようもなさを求めているのです。
私が読んだ本の中ではぶっちぎりの嬉しくないシンクロ率です。
そしてフラストレーションに対し嫌悪と共にそうだと認めるしかないものを感じたのです。
痛々しくて、頑張っちゃって、でもどうにもならない感じ。
嘘や汚物の全てに唾を吐きかけたら何も残ってなくて、でもそれらで生きる嫌悪感。

滝本滝彦の小説にそれらからの脱却を求めたカタルシスがあるのなら、
西尾維新の小説がそれらを戯言と名づけエンターテイメントのスパイスとしたのなら、
佐藤友哉の小説はそれらを直視し続けたための絶望も許さない嫌悪感があります。

実際は本人はそんなつもりで書いていなくて単に私の思い込みの可能性が高いです。しかし私は佐藤友哉からしかそれを感じられなかったのです。他はそんな感性を持ち合わせていない。あるいは目を逸らしている。だから私は佐藤友哉の小説に迫力を感じたってことです。
なんというかあの当時の自分の肌触り、あるいは時代の肌触りがそこにはあった。

もう一度そんな感覚を味わいたいのです。
今の私が佐藤友哉の昔の小説を読んでもダメでしょう。
だから今の私にそう感じさせてくれるものをずっと探しているのですが、ちっとも見つかりません。

もし人に佐藤友哉を薦めるならば、そんなフラストレーションを抱えた人にのみ薦めます。そうでない人が読んでもくだらないだけです。佐藤友哉が読めるのはその感性からだけです。
それを失った「鏡姉妹の飛ぶ教室」は1章を読んで投げ捨てました。売れなくて西尾維新の作風を真似たんでしょうけれどひどかった。
今は失業の心配も無くなって作風を戻したのかななんて期待もしますが、あれは作風の問題ではなくあの時しかなかった何かなのできっともうダメでしょう。そしてあの時の私だから無二の傑作だったのでしょう。
今読んでも、あの時の気持ちにはなれないでしょう。内省的で憎悪に不満に焦燥に諦観と現実逃避に満ちた言わば当時ネット上に蔓延していたサイト郡を嫉妬し憎悪するサイトと同じエッセンスです。
西尾維新のフォロワーは捨てるほどいても、「クリスマス・テロル」までの佐藤友哉のフォロワーが見当たらない。西尾維新が売れ滝本滝彦もマンガ化されても、佐藤友哉はちっとも見向きもされないのは何故か。(名前も知られない作家は腐るほどいるわけですが。)フォローする対象が、感性とか感情なのですから見当たらなくて当然です。
西尾維新を2冊で涼宮ハルヒを1冊で投げ捨てた私は時代と合わなかったってことで今も探し続けてるんです。


「クリスマス・テロル」までの佐藤友哉。特に「クリスマス・テロル」
A75以上
M-
T75以上
S30-45
E85以上(劣等感と、その裏返しの優越感、そして閉塞感からくるフラストレーションの塊のような文章。当時の私はシンクロ率抜群と認めざるを得なかった。ミステリじゃなく童話というジャンルで書いたとしても得るものは変わらなかったでしょう。おそらくは、当時の私、当時の佐藤友哉、そして2002年という時代が生み出した傑作)
もし人に佐藤友哉を薦めるならば、その種のフラストレーションを抱えた人にのみ薦めます。そうでない人が読んでもくだらないだけです。佐藤友哉が読めるのはその感性からだけです。




ついでに西尾維新について
今や売れっ子エンターテイナーです。
(個人的にはブギーポップの世界でドクロちゃんをやられているようで気持ち悪いのですが)
「クビキリロマンチスト」西尾維新
A10(どうしても受け入れられない、戯言なんていわないで)
M-
T25以上
S60以上
E50以上(この人は先駆者だし、ある種の感性を持ってるので)



評価記号について

総合

物語性とでもいうか、演出、構成、設定など
要はお話としてどうかってこと

これは一番説明が難しい。
TVのコメンテイターに説得力がないのは何故か?
言わされているか、言っているか。
どこかで聞いたことのあることを喋っているだけかどうか。
主張あるいは熱意があるかどうか。
やりたいことをやっているかどうか

私の嗜好性、明るい話より暗い話、電波や青臭いは誉め言葉。

その他の特性

最高は100点
-は作品の評価に関係ないということ
「以上」それ以上だが判断がつかないということ

最後に、
独断と偏見に満ちてた評価だということ
かつ備忘録である


基本的に2000-2003年当たりに読んだものに関しては点数が高くなります。

「隣の家の少女」「リングテイル」「僕らはどこにも開かない」「アルジャーノンに花束を」「ポップ1280」 

最近読んだ本のメモ
「隣の家の少女」 ジャック・ケッチャム
少女が近所の家に養子として連れてこられる。好きになった少女が、少女の美と若さに嫉妬に狂った養母とその息子と息子の仲間達に虐待される。息子の友人の主人公たる少年も流れに逆らおうにも逆らえず虐待を眺めている話。
淡々とした作品。虐待ものなんだけど、どことなく煮え切らない中途半端な作品。ほのかに香る文学性が鼻につく。古典文学から匂ってくるあの香り。芸術性っていうのか、ハイハイ綺麗に纏まりましたって感じの臭い。文学性を主張するかのような臭い。嫌いな香りじゃないけど、わざわざ嗅ぎたくもない。
悪くないけど、こういう本を1冊読んだという経験値を手に入れたよって作品。

A20
M-
T25
S25
E15(何となく)


「リングテイル」1234巻 円山夢久
2000年出版だが、さらに10年前の雰囲気の作品。
80年台色強そうなハイファンタジー。ロードス島戦記の仲間なんじゃないかな(読んだことないけど)。絶対に時代が古い。
でも読ませるよ。
何かためになるようなことが書いてあるわけでも、この言い回し良いなぁなんて思うところもない。
でも読ませる。一気に読んだ。
文章を読むという行為が純粋に楽しいんだと思う。
特別な文体なわけでもない、ただ読ませる。
寝覚めが良い朝のような爽快な読後感。

A30-45
M10
T30
S-
E30-45(読後感)


この評価基準での最高傑作は
「イリヤの空、UFOの夏」秋山瑞人著
イリヤはただ読ませるだけじゃなく文体が最高なんだけど。
目で文字を追うことか純粋に気持ちいい。
視覚的かつ先へ先へと急がすような文体には驚愕です。

A35以上
M10
T20
S20
E75以上(文体)



「僕らはどこにも開かない」御影瑛路
狂気や異常や負を軸に世界を違う見方で捉えたって作品。
最近というか2000年前くらいからのライトノベル付近の延長。
ただその手の題材で話を作ったってだけ。主張にポーズが、というか主張を最重要にしていないだけ無いだけ読むに耐えられる。
だがら話が上手く出来ているかどうかで考える。
退屈はしない。だがレシピがあれば料理はいらない。
私はこの手の本に嗜好があるから、評価が厳しいのかもしれないし易しいのかもしれない。扱っている内容自体は実はインパクトのあることかもしれないし、本としてのレベルはずっと低いかもしれない。
ただ4年前読んでいたら嫌悪したと思う。多分この作者は題材と技術でしかカバーできない。

A10
M15
T5
S35
E5(もう一作様子見)


「アルジャーノンに花束を」D・キイス
感動する話だということも、感動する人が多くいることもわかるよ。

A30-50
M40
T20
S10
E25(幼少時のリアリティとか)


「ポップ1280」ジム・トンプソン
なんだか不思議な魅力がある。
アメリカの地方新聞で週刊連載されてそうな、でもそこには収まらないような。
夏から秋へと変わる青い空、見渡す限りの小麦畑、赤いトラクターの横で麦藁帽子の体格の良い老人が「何か話を聞かせてよ」と孫にせがまれて「しょうがない子だ、今日だけだぞ、おじいちゃんが子供の頃の新聞で書かれていた話しなんだがな」などと語り始めて、気づいたら厚い雲に覆われていて、子供が重い面持ちで、いつの間にか夕暮れで、「さ、帰るぞ。」と子供の肩をぽんとたたく。そんな情景が似合う。
どことなく御伽噺のようで、とぼけたようなユーモアと何処か重い後味が癖になる不思議な魅力。
余談だが、昔の18禁ゲームの雰囲気がどことなく漂う。

A35以上
M20
T30
S35
E50(作風としかいいようのないもの)



評価記号について

総合

物語性とでもいうか、演出、構成、設定など
要はお話としてどうかってこと

これは一番説明が難しい。
TVのコメンテイターに説得力がないのは何故か?
言わされているか、言っているか。
どこかで聞いたことのあることを喋っているだけかどうか。
主張あるいは熱意があるかどうか。
やりたいことをやっているかどうか

私の嗜好性、明るい話より暗い話、電波や青臭いは誉め言葉。

その他の特性

最高は100点
-は作品の評価に関係ないということ
「以上」それ以上だが判断がつかないということ

最後に、
独断と偏見に満ちてた評価だということ
かつ備忘録である

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