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「食べたくても食べられない人がいる。だから残さず食べなさい。」 

 「食べたくても食べられない人がいる。だから残さず食べなさい。」
これを否定できる程度に論理的になりたいです。これ昔よく耳にしたと思います。小学生でも(だからと言うべきか)おかしさに気づくはずです。
 他人が食べたいことと、自分が食べたくないこととは関係がない。相手にするのも面倒です。
「Aできない人がいる、だからAしなさい。」
これが正しいならAはなんでもよいわけです。
数学と同じように論理が破綻しないためには絶対的に正しいとされる公理が必要だと思うんですが、厳密にはそんなもんありえないと思うんです。だから相対的な(自分の中では絶対的であるべき)価値観をもとにするんですが、人間は形式ではなく具体的な問題(G)を見がちなので、結局解決できるのはGだけです。
上記の場合、「食べたくても食べられない人がいる。だから残さず食べなさい。」←具体的な問題(G)が論理的におかしいだけでなく、「Aできない人がいる、だからAしなさい。」←抽象的形式(T)が間違っていると気づき、今後一切この形式を利用しなくなれば上々です。

 そして「自分がB(やさしく)されたいなら、他人にもB(やさしく)してあげなさい」や「自分がC(殺す)されたくないなら、他人にもC(殺す)してはいけない」「D(自殺)するくらいなら、E(復讐)できるだろ」等は同じように絶対的な正しさはないと気づくはずだと思うんです。
A→ゲーム、B→殺す、C→同情、D→負ける、E→殺人、を代入して言いたいことが破綻するようなら、主張の正しさは論理ではなく価値観に依存しています。論理のみに依存する正しさなど決して存在していなくて、価値観と論理の合わせ技で正しさとされるものが納得できる形で生じるんでしょうが。
 論理なんて価値観をごり押しするための道具です、押し付けられるほうはたまったもんじゃありません。あるいは確認するための道具です、論理が破綻した正しさなんて受け入れられません。
 それでは価値観が違えば論理に意味はないかと言えばとんでもありません。論理的であろうとする価値観を前提とします。論理的であろうという姿勢は、論理の皮を脱ぎ去ることであり、前提となる価値観を頭から否定しないということです。
(論理というものが何を指すのか曖昧なので今日も曖昧ですが、眠いし面倒なので更正しません。)

結局論理は前提を明白にするためのものだと思ってます。
だから論理的な技法には評価を置いていないかもしれません。
でも論理的な姿勢が行き着く先には期待しています。

これはkomatunaさんの06/11/23の記事を読んで思いつきました。
(トラックバックの方法は分かりません。11/20の記事にコメントを戴いた方のブログです)

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言語は対象を一方的に言語化する 

言語は対象を一方的に言語化する
(対象:物、関係、概念、言語、等言語化される全て)

 石が「石」だと名づけられていることが、ロシア語を日本語に翻訳したものを読んでいるようで、誤訳がないと言い切れるのかと私をイライラさせていたんですが、言語は対象を一方的に言語化するしかないことから、これは無意味な問いでした。問題意識は捨てられませんが仕方がないんだとしておきます。



 「ある」という単語と「ない」という単語を意味を変えず文法上の配置を交換するとします。
 「彼は男である」は「彼は男でない」に変わるわけです。でも意味はそのままですから「彼は男でない」は言語上正しいですが、実際は彼は男です。入れ替えた結果が、例えば「僕は将来住む家にはクリムトの絵を飾るんだ。」という文章にどう影響を与えるのでしょうか。人間では実験するどころか実験を想定することも困難なので、例えばここに日本語を人間と同程度に操るコンピュータがあるとします。語の意味はそのままで「りんご」と「砂糖」の文法上の配置を交換する、同じく「ウサギ」を「ロボ」に置き換える(ウサギもロボも「ロボ」にする)、あるいは配置は変えずに「雪」の意味を「√2」にする等、編集します。何でもいいんですが例えば「アリスが来る前の僕は宇宙戦争をするんだけど、昆虫の眼鏡を食べる家族に困ってるんだ」等の文章はモニタにどのように表示されるのでしょうか。
私の頭ではどう考えていいかさえ分かりません。

分からないという結論でも意味がないという結論でも構わないからこういった問題を体系的に解き明かそうとした人の本を探しているんだけど見つからない。言語はどのような条件に対しどのような言葉を与えるのか。真実とかそういったもんはそこにしかない。

投げかけられる真摯な言葉たちが、腐り落ちていくのをただ黙って見ていた。 

投げかけられる真摯な言葉たちが、腐り落ちていくのをただ黙って見ていた。
それは「僕は方法になる、だから掃除をするんだ。」という独り言だったりするけれども。
浴びせられる嘲罵どもが、壁に溶けていくのをただ黙って見ていた。
「バカは同じ行為に違った結果を期待する。」。うるさいな、行為の目的は全て同じだ。

「22:00掃除スタート」というメモをPCモニタの角に貼り付ける。
このメモは強制力を持つと決める。ただ「強制力がある」という言葉は腐り落ちているので、別の識別記号を用意する。
あとは条件付けだ。この試みも寿命は近い。記号まで擦り切れてしまわないよう注意するよう。

もう冬ですね。 

もう冬ですね。

発売1ヶ月前に騒がれ始め、発売翌日には忘れられる。
そんな世の中です。ウォッチャーたるものニュースは常に先取りすべきでしょう。
視聴者は今日の話題ではなく明日の祭りを常に求めているものなのです。
なので今日の記事に関しては、思いついたから書いてみたなんて誤解はやめて頂きたい。

もはや年末の風物詩といった感がありますが、
今年は何人の貧しい老人が年を越すために押し入り強盗をするのでしょうね。
「深夜のコンビに強盗」「犯人は70歳男性」「凶器は鎌」「餅を買う金が欲しかった」「ばあさんと相談して決めた」などの文字を見るたびに、社会の被害者がまたひとり、などと思ってしまいます。
母の愛が時に子を殺すように、伝統は時に人を殺すものです。
子と違い伝統との一体化を目指す老人は言わば狂信自殺です。


伝統と宗教の類似性に関してはソルボンヌ大学の墨桜女史にお任せするとして。
高齢者のモラル低下の観点から考察してみましょう。
「年越し」という行為が神聖視された結果の犯罪ならば、この犯罪は悲劇でしょう。
ですが犯罪の凶悪化、社会モラルの低下という社会現象は何も若年層に限ったことではないのです。
ここに統計資料を用意しました。少年の凶悪犯罪の発生率をグラフ化したものです。みなさんご覧になったことがあるかと思います。このグラフを見る限り確かに少年の凶悪犯罪の発生率は増え続けています。少年とは20歳以下の男女を、凶悪犯罪とは殺人、強盗、強姦、放火を指します。
ただここには統計の恣意的誤用があります。このグラフは1995年からのものですね。それ以前のグラフは常に省略されています。何故か、1958~66年が凶悪犯罪発生率が最も多いのです。1960年の新聞記事には若者のモラルの低さ、動機なき犯罪を憂いた記事が溢れています。ピストルを奪うために交番を襲うことが流行ったのもこの時期ですね。
ただ確かに1997年から凶悪犯罪の件数は増加します。そして犯罪別に見ると増えたのは強盗です。それ以外は大した変化はありません。オヤジ狩りが流行したのもこの時期ですね。でも実際には警察の態度が変わっただけです。ここにはオウムの事件で社会が犯罪に対し過敏になり、酒鬼薔薇の事件で少年犯罪に敏感になったという時代背景があります。そのため1997年より少年犯罪に対する警察の姿勢が変わりました。例えば万引きを見つかり逃亡した時に通行人を突き飛ばして怪我をさせた。この程度の犯罪が万引き→強盗に格上げました。ただそれだけのことです。

しかし少年の凶悪犯罪が減少傾向にあるように社会の凶悪犯罪も減少傾向にあります。

以前から言われているように実際は凶悪犯罪の増加などという問題はありません。せいぜい視聴率稼ぎ、評論化気取り、予算獲得、社会不安に対するスケープゴート程度に考えておいたほうが無難ですね。凶悪犯罪は減少傾向にあるという社会認識が芽生えるまであと5~10年てところでしょうか。この辺はgoogleの普及の功績ですね。

私的にはモラルと凶悪犯罪はたいしてリンクしていないと思いますけど。

今日は100%他人に向けた記事です。 

今日は100%他人に向けた記事です。

毎週1食、1年で50食より、毎日1食を25日、これを半年周期で繰り返すほうが飽きがこないです。あなたはどうですか。

どうでもいいですか、バカバカしいですか。同感です。
もちろん昨日までの文章もバカバカしいと言えばバカバカしいですよ。
じゃあ何が違うかというと、上の一文には内的必要性が全くない。
自分に0、他者に0.1なら100%他者に向けて書いたと言う意味で100%他者に向けて書きました。
と書いたことで自分に0.02、他人に0.11程になりました。
シュヴァリエにおけるテーマくらいどうでもいいことですが。
→更新

肯定しようが否定しようが、全ては決まっていく。 

 肯定しようが否定しようが、全ては決まっていく。
この人生だろうが別の人生だろうが、全ては決まっていく。
この僕だろうが、違う僕だろうが、この彼女だろうが、違う彼女だろうが、この世界だろうが、違う世界だろうが、この過ごし方だろうが違う過ごし方だろうが。
だから悔いのない選択をなんて話じゃない。
 
 複数の選択肢があれば違った評価をする。人間の思考の癖だ。その評価を自己の同一性の核に据えたいなら据えるがいいさ。
 
 この世界にぼんやりと漂う僕という名の自意識にはどんな差異だろうが突き刺さらない。肯定、否定、現実、空想、本物、偽物、ある、ない、美人、ブス、幸福、不幸、全ての差異は僕を突き動かさないという意味で差異はない。笑ってみても、悲しんでみても、本物の感情なんてない。
 何もかもがぼんやりと何の意味もなく存在し、生きているだとか死んでいるだとかいう尺度にも意味はなく、真実の言葉と嘘の言葉にも差異はない、何もかも等価な世界、等価と不等価の差にも意味はなく、何もかもがただなんとなく漠然と存在する世界。ようこそ僕の世界へってやつだ。
 こんな世界では自己を肯定することや意味を見つけることに意味はなく、自己否定や無意味さを嘆くことにも意味はない、本物や幸福を求めることにも意味はなく、偽物や不幸を嘆くことにも意味はない、ダメ自慢にもダメ自虐にも意味はない。間違いなく言えることは、信じなければ本物も偽物もない。例外なくだ。
 
 僕のこの気分の重さは今まで住んでいた世界から真実の世界を評価している故に生じる重さだ。自分の変わらなさが嫌になる。世界の真実の姿を受け入れるべきだ。この場合のみ真実という言葉に特権的な立場が与えられる。
 
 価値も意味もなく霧のようにぼんやりとした死ぬまで続く全てに対し確信のない世界。ただただバカバカしさと虚しさの追い風を背中にだけ感じて進むこと。それがこの世界で生きる術。

文部科学大臣に対して「いじめのため自殺する」という文書が送りつけられたらしい。 

文部科学大臣に対して「いじめのため自殺する」という文書が送りつけられたらしい。

 最近またイジメが問題になってるらしいけど今更だよな。
 俺が中学の頃には限界きてたよ(いじめはいけないって建前を建前だと言い切れていなかっただけマシかもしれないけど)。俺が通っていたのは田舎の中学校で小学校のメンバーそのままエスカレータだから露骨ではなかったけど。それでも小学校の頃のいじめ(軽いものだったとは思うけど)で、私立の中学へ行った人は何人かいたし、中学で不登校になった人もいたし。片田舎でこれだもの、都会は相当なものだったと思う。田舎特有のいじめという意識のなさから大して問題にはならなかったけど。
 中学の頃通ってた近所の塾は隣町からも来てる人間がいたから暴力が発生してた。
D君が俺を守るという形でO君を殴ってた。
実際はD君がO君に一方的に絡んで殴ってたんだけど。
D君はかなり自己主張の強いタイプ、対して俺は、我侭は嫌悪するものだという一般認識に欠けてたので無意識な非難もD君に向けていなかった(と思う。威張りたがる性質に対して呆れを感じ取られたかもしれないが少なくとも非難はしていない)。だから何だかんだで塾で一番親しかった。
一応、俺を守るという大義名文の元D君はO君を殴るわけだ。
そして一方的な暴力をケンカにするために横から煽ってO君を逆上させるキーキーうるさいH君。
多少は止める素振りをする正義感のあるさわやかS君とS君の友人K君。
D君を応援する野次馬の女子達。
彼女達の軽蔑ともどよめきともいえる歓声の中、O君を殴るD君。バカにしながら挑発するH君。
エスカレートしそうになると止めに入るS君。D君の「むかつくな」に対して「じゃあ、もう一回殴れば」と望みどおりの相槌を適当に打つ俺と「やめとけ」と答えるK君。

 時々塾に顔を出すボス役のR君が来ると状況は少し変わるがO君が殴られることに変わりはない。
D君はR君にひどくやられたらしくびびってるんだ。
個々の力関係は、R>D≧S>O>K>H=俺(H君と俺はケンカできないタイプ、H君はお調子ものだからD君に殴られて泣かされていた所を一回見た)
R君が登場すると仲裁に入るわけだ。
R君はびびってるD君を黙らせ、正義の味方として外見の良さと相まって女子にも大人気。
O君に対しては「お前もうじうじしてないでもっと打ち解けろよ」とか諭すわけなんだけど、O君の性質(俺と同じくプライドが高く、自意識過剰で、女の子の目をひどく気にする)、現在の惨めな状況からO君に引っ込みがつくわけない。結局O君はR君に殴られる。
もちろん正義感のある子は何人かいるけどそんなもんは黙殺されるに決まってる。こうしてO君は塾に来なくなった。

 もちろんデフォルメされてるよ。こんな切抜きみたいな中学生はいない。

 作られた被害者、明らかに加害者の俺は、面倒だな、バカバカしいな、O君も災難だなとただ見てた。
 首を絞める言い訳をしておくと元々いじめるとかいじめられるとかに無関心だった。
高校の頃、俺はいじめられている(進学校だったし、一部に無視されたり陰口叩かれる程度でそれ以上にはならなかったけど)と言えなくもない立場だったけど、関らなきゃ面倒のない話だし気も使わなくていいし、たいして思う所はなかった。実際殴られたりしたら違うんだろうけど、テレビで見るような何百万脅し取られたり理不尽にパシリにされて殴られる目にあったらそいつの家を燃やそうと偽りの誓いを立て課題を解決した気になってやりすごした。
 この考えは小学校の頃にいじめるとかいじめられることに関心を持ったり考えたりすることをやめたからだろうけど。実際嫌われても関らなきゃ大した問題はなかったし、関るにしても最初の立場が対等なら距離をとっていればいいし。最初の立場を対等にするためには関らないでいることだし。

「クレイモア」八木教広 

月刊ジャンプ連載中の「クレイモア」八木教広。
2007年、アニメになるらしいね。
有触れたファンタジーなんだけど不思議と先が気になって読んじゃう。
(特にテレサ登場から)
簡単にあらすじ。
寂れた中世ヨーロッパ風の世界で、人を喰う妖魔に対してある組織によって造られた半人半妖の女戦士・クレイモア。
主人公の名はクレア。歴代No1と言われたクレイモア・テレサの肉体を受け継ぐ半人半妖ならぬクォーターのクレイモア。
子供の頃の恩人であるテレサの敵を取る為に生き延び成長していく物語。
さらっと。

テレサ
ガラテア
ダフ
左から「クレア」「テレサ」「敵」
とかじゃないからね

「やる気の量は決まっている」。怠け者の最たる言い訳ですね。 

「やる気の量は決まっている」。怠け者の最たる言い訳ですね。

 これを「決まっていない」に変えるべきなんですが、しかし大げさに言えば脳内のシナプスの結びつきに発する私の思想、言動等「決まっている」に基づき構成されているわけです。
 そしてシナプスの経路変更に何年かかるか知りませんが、結構な時間がかかるとおもいます。その間、己を変える行為に対し絶え間ない自己監査が要求されます。気が遠くなりますね。もちろん、その行為にも「やる気」が必要なわけですが、私が今現在生成する「やる気」では足りない。こうして私のやる気の量はいつまでも「決まっている」ままです。
生成されるやる気<己を変えるやる気
だと気づいた時点でゲームオーバーですね。

 「やる気」を奪う原因はと振り返ると、何かをしようと思ったとき何もしなかった経験です。
この身体に染み付いた行動様式により
1、何かをしようと行動してみても何も出来ず「やる気」がますますなくなる
2、今の「やる気」の生成量を減らさないために何もしない
3、「やる気」を出そうとした時点で何も出来なかった経験が脳で条件反射に復習される

 4、になりますが、さらに大きな視点の言い訳として、やる気を出して何かをやっても大して変わらない、という理由もあります。変わるかどうかは個々人のメモリ調節に依存しますからメモリが細かく刻んである人は変化を認識できるのでしょう。けれど私のメモリは恐ろしく荒いです。だから僅かな変化を次の「やる気」に変換することは期待できません。
 こうしてみると「やる気」は減ることはあっても増えることはありません。困った無気力スパイラルです。

 もうひとつ言い訳として、何かに脳を使うとは他の何かに脳を使わせないことを意味します。
 ここで当然の疑問として、”俺はこんなことに脳を占領させていいのだろうか”と自問するわけです。それは”俺はこんなことをしていていいのだろうか””俺はこんなことにやる気を使っていいのだろうか”等のバリエーションを生み出し、時間も頭もスカスカになっていくというスパイラルです。

 最後にしときますが「やる気の量は決まっている」の潮流を遡ると、強制されたことしかしてこなかったせいだと気づきます。何かをすることは常にやる気を振り絞る行為だった。「やる気の量は決まっている」という危険思想を無意識に実践してきていたと言っても過言じゃありません。


 ここで、あんたにできることは言い訳だけだなどと自己批判してみても、危機感を感じる感性など死んでます。このままでは私の一生は言い訳で埋まってしまいます。言い訳のために言い訳をする言い訳スパイラルな人生です。困ったものです。
 という一文を書いて今日のやる気は尽きました。

今日のやる気のなさは引いた風邪が原因だと、言い訳を言い訳にして。

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