スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「食べたくても食べられない人がいる。だから残さず食べなさい。」 

 「食べたくても食べられない人がいる。だから残さず食べなさい。」
これを否定できる程度に論理的になりたいです。これ昔よく耳にしたと思います。小学生でも(だからと言うべきか)おかしさに気づくはずです。
 他人が食べたいことと、自分が食べたくないこととは関係がない。相手にするのも面倒です。
「Aできない人がいる、だからAしなさい。」
これが正しいならAはなんでもよいわけです。
数学と同じように論理が破綻しないためには絶対的に正しいとされる公理が必要だと思うんですが、厳密にはそんなもんありえないと思うんです。だから相対的な(自分の中では絶対的であるべき)価値観をもとにするんですが、人間は形式ではなく具体的な問題(G)を見がちなので、結局解決できるのはGだけです。
上記の場合、「食べたくても食べられない人がいる。だから残さず食べなさい。」←具体的な問題(G)が論理的におかしいだけでなく、「Aできない人がいる、だからAしなさい。」←抽象的形式(T)が間違っていると気づき、今後一切この形式を利用しなくなれば上々です。

 そして「自分がB(やさしく)されたいなら、他人にもB(やさしく)してあげなさい」や「自分がC(殺す)されたくないなら、他人にもC(殺す)してはいけない」「D(自殺)するくらいなら、E(復讐)できるだろ」等は同じように絶対的な正しさはないと気づくはずだと思うんです。
A→ゲーム、B→殺す、C→同情、D→負ける、E→殺人、を代入して言いたいことが破綻するようなら、主張の正しさは論理ではなく価値観に依存しています。論理のみに依存する正しさなど決して存在していなくて、価値観と論理の合わせ技で正しさとされるものが納得できる形で生じるんでしょうが。
 論理なんて価値観をごり押しするための道具です、押し付けられるほうはたまったもんじゃありません。あるいは確認するための道具です、論理が破綻した正しさなんて受け入れられません。
 それでは価値観が違えば論理に意味はないかと言えばとんでもありません。論理的であろうとする価値観を前提とします。論理的であろうという姿勢は、論理の皮を脱ぎ去ることであり、前提となる価値観を頭から否定しないということです。
(論理というものが何を指すのか曖昧なので今日も曖昧ですが、眠いし面倒なので更正しません。)

結局論理は前提を明白にするためのものだと思ってます。
だから論理的な技法には評価を置いていないかもしれません。
でも論理的な姿勢が行き着く先には期待しています。

これはkomatunaさんの06/11/23の記事を読んで思いつきました。
(トラックバックの方法は分かりません。11/20の記事にコメントを戴いた方のブログです)

スポンサーサイト

コメント

健康用品

健康用品を探すなら http://www.mnpainctr.com/100938/101035/

マタニティ・ママ

マタニティ・ママ http://tooting.archiunite.net/

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://citysonohara.blog71.fc2.com/tb.php/94-928e2b8c

論理のもつ役割

多分、末路 というblogにこんなエントリがあります。内容を思いっきり要約すると、こんな感じになります。結局論理は前提を明白にするためのものだと思ってます。だから論理的な技法には評価を置いていないか

  • [2006/11/29 01:53]
  • URL |
  • 中庸が目標 |
  • TOP ▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。